ガーナのパイナップル 武辺寛則

海外では様々な活動をしている日本人がいます。

20代という若さで自分の生きる道を知り、それを実行する。

社会に出て間もないそんな若者達が、誰かの為にというその事だけで、遠い異国の地で活動しています。

アフリカのガーナの小さな村にも、そんな日本人青年がいました。

彼の名は【武辺寛則 たけべひろのり】。

武部さんは当時、青年海外協力隊員としてガーナに渡ります。

彼の配属されたのはアチュワという小さな村。

村の人々は基本的に自給自足の生活、しかし今後少しでも生活を改善するには、現金収入が必要でした。

しかし自給自足で生きて来た人々、そんな知識も資金も勿論ありません。

そこで武辺さんは立ち上がります。

「自給自足の村で、現金収入の向上を図るプロジェクトを村人と共に企画・実行する。」

そこで武辺さんが目をつけたのが、農作物。

その中でも、元々栽培をしていた「パイナップルの栽培」に力を入れることを決めました。

「アチュワ村パイナップル協会」を立ち上げ、連帯感や責任感を促すという武辺さんのアイデアで、会員には会費を募ったりとしたそうです。

その会費は協会の資金となるのですが、初めは反対意見も多かったそうです。

見ず知らずの日本人が、目に見えない事にお金を使っている、そう思ったのではないでしょうか?

しかし武辺さんは、今後の村の発展の為に努力します。

協会の人の説得や灼熱の暑さの中での畑の見回り、常に手を抜くことなく活動を続けました。

そんな武辺さんの真剣な行動をみて、少しずつ心を動かされていきます。

やはり、「心」から動かされる行動は、伝わります。

武辺さんは後に、村のまとめ役である「ナナ・シピ」という役職になります。

村の長老から告げられた時、村を離れる人間だからと一度は断りますが、

「たとえ日本に帰っても、ナナ・シピになっていれば、きっとアチュワ村の事も忘れないだろう。」

長老からの言葉は、村全体からの言葉でした。

こうして皆の努力が実を結び、村の現金収入どころか、なんと国外への輸出も手がけるほどに、このプロジェクトは発展しました。

アチュワ村で活動してから2年を過ぎたころ、武辺さんは病気の村人を運ぶ最中、そのトラックの横転事故で命を落とします。

27歳という若さです。

武辺さんの死後、村人達は「タケベガーデン」という記念公園や慰霊碑を作ります。

さらにはアチュワの子どもたちにも語り次ぎ、武辺さんを後世に残していく事を誓います。

「手がけてきた活動は、全て村の人たちやガーナに派遣された他の協力隊員たちの協力を得たものであり、常々感謝の気持ちが絶える事はない。」

常に感謝の気持ちがある、だから続けられる。

実際に武辺さんはアチュワ村の発展を見る事ができませんでした。

でもきっと、信じていたのでしょうね。

「意志あるところ、道は通じる」

武辺さんの強い意志で、アチュワ村は今も発展を続けています。

こんな日本人がいたことをぜひ知ってほしい。

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